キチガイさん?

天気がいいので授業なんかやってらんねー。どうにもそんな気分なので街に買い物に繰り出したところアジアだかアフリカだかのドラムが手頃な大きさと手頃な価格で転がってたのでつい買ってしまった、俗に言う衝動買いである。
しかしこの太鼓がまたなかなかいいもので何も考えずにポコポコ叩く。ひたすら叩く。トランスもトリップもしない、ただ無心にリズムを刻むだけだ。ポコポコポコポポンポポポポンポン。
などとやっているといつの間にか2時間ぐらい経っていてどうもふらふらする。気持ち悪いわけでも頭が痛いわけでもないがどうにも精神の据わりが悪い。これはどうも疲れたのだろうかと思って風呂に入って徒然に考えるうちに思ってしまったのだ、キチガイと正常の違いはナンだろうと。
例えば、風呂に入っているときに素っ裸なのは当然、常識なわけだが、これが一歩家の外に出ると突如変態さんになってしまうわけだ。うん。まあ、一般の人民は裸で外を出歩いたりはしないし、これについてのコンセサンスは十分すぎるくらい、およそ人類が文明という奴を獲得した頃から形成されているわけだが。しかしだ、一体どんな理由で裸で外を出歩くことがイクォール変態さんに結びついてしまうのか。何の他意もなく、ただ裸で外に在ってみたいという考えを持つ人があってもいんんじゃないか、自由社会なんだし。
ところが実際にそう考えあまつ実行してしまうとどうも変態さんではなくキチガイさんにグレードアップできてしまうようのだ。セクシャルな発露で変態さん、無邪気な裸はキチガイさん。何故だ。例えば今、俺は猛烈にこれに対して疑問を持ち、実行しようかと考えてる。裸で外を歩くのがキチガイならば、つまり俺はキチガイなのか?お医者さんにいろいろ質問されて精神分裂だパラノイアだ診断されてしまうのか?では風呂の中で考えているだけで実行に移さなければ一般ピーポーでOKなのか?
悶々と考えながら風呂を出て身体を拭いているすぐ横には内と外とを隔つドアがあるわけだ。そう、世間一般では実行に移したものだけがキチガイさんとなり、例え考えても実際には何もしないのが正常人だ。ということはどんなに俺が考えていてもしょうがない。
開けた。
出た。

夜気が火照った身体に涼しい。
居並ぶ4枚のドアーに囲まれ、道路の方を眺める。まったく新しい発見だが、裸で外に居るときほどドアの役割を実感できるものはない。まさに境界。内でなら許容される、正常人でいられるのに、ドア一枚隔てて今外に素っ裸でタマキンをぶらぶらさせてる俺は他者にとっては変態さんもしくはキチガイさんなのだ。
さて、幸い誰にも見咎められることなくお巡りさんに病院に連れて行かれることもなく俺はドアの内側、居るべき場所に戻ったわけだが、それでは、今、俺は正常人か?それとも裸で外に在ってみたいという衝動*1を実行してしまうキチガイさんなのか?それはこの文章を読んでいる人が判断してくれればよい。
だが、もしも俺がこれをデリートしてしまえば、誰も俺の精神の異常の可能性について気付くものはなく、俺はこのまま一般人として暮らしていくことができるわけだ。
まったく、異常と正常の違いなんてどうにもクソみたいなものなのだと、つまりはそういう話です。経験的に。

*1:別段外で裸になりたかったわけではなくて、あくまで「狂っている」ということの判断がどれほど恣意的かを明らかにするための行動である