金沢は雨だった。遠慮呵責なく降り続く雨は全く憂鬱で、今の俺には実に相応しいとも思えた。少なくとも日の差し込む太平洋側よりは。
四年生になったから、来春卒業予定だから、という理由だけで、主体性はおよそないのに社会に流されておざなりに就職活動なる一連の儀式を始めた結果、俺という人間の形は社会という巨大な歯車には合致しないという認識だけを得て逃げるように大学に戻った。能力云々の前に人間として社会を受け入れることができないという現実は、どこか懐かしい、諦観にも似た情動を思い起こさせた。
ずっと昔、やはりこれと似た心の形を、一個の現象として俺は傍観していた気がする。まだ中学生の頃、学校から帰った夕暮れに犬の散歩をしながら、得体の知れない、奇妙な寂寞感と人生に対する諦めを深く感じていた。斜陽に染まる空、静かに下りてくる夜に、自分の人生が全く偽者のような感じがして、俺は世界を受け入れることはできないし、また世界にも俺の居場所はないのだと悟った。犬が横で糞をしていた。その時無性に犬っころ一匹が羨ましくなったことを覚えている。俺は、このすぐ横で糞をしている犬とすら遠く離れて孤独だった。
今になって振り返るとなんとも奇妙な感覚だ。訳も判らず、ただ犬の散歩中に俺は世界に対して独りだった。
その頃の自分が何を考え、何を感じ、何を喜びとし、何を夢見ていたのか、そして自分が生きてきたという証拠も、実感も、全て失くした。何もかも失くして、ただひとつ孤独と諦観だけがずっと静かに記憶の底に横たわっているのだった。そうして時折ぴかぴか鈍く光っては、自分が独りであるということ、世界は遠く離れ栄えているということを思い起こさせる。
そして、今もそうだというだけの話だ。
 
まったく、人生は面倒だ。あの犬のように何も考えずただ糞をしていられたらよかったのに。
 
しかしこうして誰にも見えないところで不平不満を並び立てたところで何も解決しない。もっと意味のあることをするべきだ。つまり、誰にも見えないところで、確固たる宣言と宣誓を以って、己の意思を鋭利な刃に変える。
世界に居場所がない。だから俺は、刃で世界を削らなければならない。
自分独り、安穏と居られる場所を世界から削り出す、それこそが最もシンプルで最良な方法だ。少なくとも自分を世界の形に合わせるよりは。