"死"と"生命"との乖離

またもや明け方になってからの更新だが寝る前に思いついたので。
 
人の"死"とは、客観として観測する限りにおいては(つまり自分が死んだのでなければ)、生命活動自身とはそれほど関係のないところにぽっかり浮いているようなものである。
故に死の儀式(つまり葬式)こそが正に死の形を表しているのであり、葬式が文化によって違うのであるのだから(文化人類学専攻のくせして各文化の葬式の違いをすぐに挙げられないのは無能の致すところ。これを深く恥じる)、それは人々が見ている死の形が文化によって違うということなのではないか。
ちゃんとまとめれば論文書けそうだが、そうするとこれは「異文化間の葬送儀礼比較」として文化人類学の論文になるのか、「人の死の形についての考察」ということで哲学の論文になるのか。個人的には後者に興味があるのだがそうすると文人の論文にはならんな。もっとも、こういった文型の学問の厳密なカテゴライズにはそれほど意味があると思わないし、学問の枠を作ってそこに閉じこもることは寧ろ弊害でしかない。カテゴライズは飽く迄ある程度の指標でしかないわけで、学問者としては自由に自分のテーマを追えばいいので気にしない。うん、気にしない。
 
あ、一応言っておくが、文化人類学はそもそも表立って文化の比較はやらないです。調査対象の文化について詳しく研究していくことにより、結果的に読者のベースとする文化(我々の場合は日本文化)と対象の文化との差異が出てくるわけで、従って二つの文化を並べてここがこーでそこがあーだ、というようなことは(執筆者は)あまりやりません。わー、上でカテゴライズはどうのこうのと言ったその舌の根も乾かぬ内にカテゴリの枠に閉じこもってすみませんやっぱり学問毎に方法論などの各種特徴はあります。要は、あんまりそういうの気にしすぎんな、という話で。
あ、文化の比較については、他の学問でやってるとは思います。よく知らんけど*1
よし、寝る。
 
(2953時)
 

*1:一応金大にも比較文化研があるが、やってることは東アジアの宗教が中心のようなのであまり授業を受けてはいないため