夜歩く

何とはなしに夜を歩きたくなった。月は出ていないが乾いた風の吹くよい夜だった。
山の中腹の住宅街は、1時を過ぎたばかりなのにすっかり眠っているようだった。オレと、外灯に照らされて気まぐれに歩くオレの影だけが起きていた。
いつものように坂を上って、突き当たりを右に折れ山肌に沿って歩く。今度は下の町を見おろす丘に突き当たるとまた右に折れ、静かな町を見おろしながらゆるやかな坂を降りていく。降りきったところで角を曲がれば、自分の部屋へと帰り着く。
角を曲がろうとして、左側、ちょっとした空き地であった筈の所に道が出来ているのを見つけた。道と云っても進入しないようバーが置いてあり、まだ未舗装であった。
 
どこまで続いているのだろうか?
 
夜の空の下、寂しく延びている出来損ないの道が、どこまで続いているのか、ぼんやり不思議に思った。そのまま、バーを跨いで石くれを踏みながら歩き始めた。
道はゆるやかな下り坂で、下の町へと降りていく。しばらく行くと今度は上がり坂になった。下の方では外灯がぽつぽつと道沿いに連なって光っている。オレの歩く道には何もない。それがとても心地よく感じられた。
やがて一般道からの引き込み口が右側に見えてきた。工事用車両が出入りするためのものだろう。
そこから左、道は更に山の奥へと続いていた。見上げてみるが光はどこにも見えない。曇り空が薄ぼんやりと浮き上がり、山の木々が黒々と縁取られて沈黙しているだけだ。オレはゆっくりと道を上りはじめた。
しばらく行くと、ギュゴゴゴゴとパイプが何かを不規則に吸い込んでいるような音が聞こえてきた。やがて正面に管理小屋と思しき建物が見えてきた。音は左側からするようで、覗いてみると小さな池が僅かな光を煌めかせながら、そのためにより深い闇を反射していた。よくは見えないがポンプか何かで水を吸い上げているのだろう。池の上には文字看板が置かれているようだが、近寄ってみても暗くてよく見えない。ついでに池に放尿していった。更に先へ進もうとして小屋の横を通り過ぎる。小屋には「薬品プラント」と書かれているようだった。窓からは制御盤のものだろうか、赤青緑白の光が漏れてきていた。
 
山の中に切り通された道を歩いていく。両側には土壁と木々が聳え立っている。時折、ひょろりと不気味に背の高い木が1、2本場違いに生えており、異様な影で以って天を突いていた。
この奇妙な道を歩き始めて30分は経っただろうか。もはや振り返っても町の灯が見えないくらいに坂を上っていた。前も後ろも暗い坂道が夜の底に黙って延びているだけだった。吹く風が大分冷たいものになっている。ほんのささやかに木々を撫でるだけで、ざわざわと山が蠢く。その度に、何かが自分を視ているような心持がして、あたりを見回した。心の中では、何も見ないように、見つけないようにと願いながら。
だんだんと緩やかになってきた坂から、終点が近いように思われた。前方を見上げると、坂が終わって平地になっているようだった。頂上を目指して足に力を込める。早く終点に着きたい一心で歩いていくと、山の稜線から直線的な影が迫り出してきた。その影は巨大な長方形で、――夜の底にも関わらず、不思議と窓があるのが見えた。
最初、山奥に巨大な建物があることに自分の目を疑った。よく見てみると、建物からは全く明かりは漏れていない。建築中もしくは廃墟といった趣きが感じられた。だがそれは確かに、しっかりと夜の底に存在を主張していた。
坂を上りきると、だだっ広い空地が広がっていた。目を凝らして下を見てみると、キャタピラが雨で柔らかくなった地面にしるしを刻み込んでいるのがわかった。所によっては草が生え茂っており、山腹の野原を造成中なのだろう。野原はずっと向こう、巨大な建物の所まで広がっていた。そしてその建物の更に向こうには、幾本もの青白い光が夜に抵抗するように必死で輝いていた。その周りに、光に照らされて――赤煉瓦色の――建物がいくつか見えた。窓から明かりが漏れてくるものもあった。
――山中を、しかも夜に、道の延びるままに歩いていたので気付かなかったが――山の中の作りかけの道が大学に繋げられているのだということを、そこでやっと理解した。
 
遠くに大学の灯が見える。周りには一面野原が広がり、木々に囲まれている。
ふと、この場所に服を着ているのは場違いな気がした。彼方に人の世界は見える。だが、ここは人の世界ではない。空と風と土塊と草木の――人以外の――世界だ。ならば、人の理を用いるのはおかしい。作務衣の紐を解き、パンツも脱ぐ。全くの素っ裸で一物を揺らしながら歩くと、素肌を撫でる風が気持ち良い。この世界に於いては服を着ていることは不自然なのである。人間であるという主張は何の意味も持たない。一動物として、己の皮膚で直に空気を感じることで、人間以外の世界が存在しているということを実感できるのだ。そこでは、服を着るというルールに縛られる必要がない。他の動物と同じように、自由にやれるのだ。
ああ、しかし、夜の底の中でだけ、人間をやめて動物で居られる時間は、夜の底が降りている時だけなのである。
 
ぽつり。
限りある動物の時間を満喫していると、皮膚に冷たいものが感じられた。
ぽつり。ぽつり。
風が、冷たい風が、少し強く吹くと同時に雨を運んできた。体中に、分け隔てなく直接水滴が落ちてくる。それは新鮮な感覚だった。背中に尻にぽつりとやられる度に、普段は使わない神経回路が開くのが分かる。ひとしずくの水がどこに落ちてくるのか、体中の感覚神経が総動員で捉えようとしているのだ。
 
雨はほんの数分降っただけでやんだ。
 
雨の感触を十分に楽しんだ後、雨で少し湿った土、露を乗せた下草を足に感じながら、元来た坂を降り始めた。上る時は不安に感じられた道が、今はとても自然に親しめる。山の森の中に、路肩の草叢の中に、オレと同じようにひとつの動物がいるというだけの話なのだ。何も恐れることはなかった。
やがて、遠く向こうの山の中腹に白い灯がぽつりぽつりと見え始めた。降りるにつれて灯の数は増えていく。薬品プラントの制御盤のある小屋のところまで来ると、眼下に見渡せる交差点から、明滅する信号機の黄色の光が強烈に目を射した。点滅するたびに周りを自分の色に染めようとする強引な灯だった。
オレは黄色の光に等間隔で照らされながら、のろのろと服を着た。素肌を風が直接浚って行く快感は、もうない。それが人間の義務であり、証なのだろう。
信号の点滅は相変わらず明るい。健全な明るさだ。夜はまだ暗い。町には外灯が寂しげに並んでぽつぽつ灯っている。車も人もいなかった。町はまだまだ眠りの時間。夜の底は上がらない。
オレは町の灯を見下ろしながら、ゆっくりと残りの帰り道を歩き始めた。
 
(2930時)